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大学院人間環境学研究院

Faculty information

教員情報
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木下 寛子准教授Hiroko Kinoshita

専攻 教育システム専攻
部門 教育学
コース 修士: 現代教育実践システム
博士:
講座 国際教育環境学講座
九州大学研究者
データベース
https://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K007658/index.html

研究内容

研究テーマ設定の背景

いくつかのきっかけから、学校という場の不思議に気付いたのが始まりです。発達障がいのある子達の療育のお手伝いをしたときに、子ども達の気分や状態が大きく変わるときには、その子の学校行事(運動会や入学式、卒業式など)の予定を確認してみるとよい、と助言を受けたことがありました。また、ある子が入学後まもなく不登校になった時、そのお母さんから、その子が「先生達に名前ではなく、苗字に『さん』づけで呼ばれた」ことを理由として挙げたことを聞かされました。たかが「行事」、たかが「呼び方」です。けれどもこうした話から、行事や名前の呼び方が、単に学校の特徴的な性格であるだけではなく、ときに学校で生活する(しようとする)子ども達に大きなインパクトをもたらすことを教わりました。学校は、6歳以降、長ければ18歳までの多くの子ども達が過ごす(過ごしてきた)場です。けれども、学校が社会にある仕方で存在していることが、あまりにも当たり前になりすぎていて、その場の意味が充分には見極められていないのではないかと考えるようになりました。

 

研究のための方法

小学校の日常への参与が基本です。毎週小学校に通っては、お掃除をしたり輪転機を回したり、子ども達や先生達とおしゃべりしたりお茶を飲んだり、時々勉強のお手伝いをしたりするような、たあいのないことの連続です。学校という場を自明のものと考えずに理解する方法は多数あります。歴史的な視点から、社会の中でのその生起や変容を問う道もあります。学校での営みを、制度から理解する道もあれば、その実際をコミュニケーションや相互行為の観点から明らかにする行動科学的な道もあります。学校の営みに滑り込んでいる視角を根本から問いただす哲学的な探求の道もあります。そして、学校空間についての根本的な検討と提案によって新たなアクティビティが生まれることに賭ける建築学の発想もあります。けれども、「ほんの些細なこと」にしか見えないありふれた日常の事柄が、子ども達の学校に向かう足を重くしたり、軽やかにしたりするのだとしたら、まずはその「些細ないろいろ」を見たり聞いたりできる可能性があるようなところに私も居たい、と願いました。幸い、ある小学校が長期的なボランティアとして受け入れてくださり、次第に学校の日々に馴染んでいくと共に、わかってきたのは、小学校の日常に充分に参与するということは、先生達と子ども達が日々織りなす意味のおすそ分けにあずかることなのだ、ということでした。そして、その意味は、他者や事物との出会いの中で絶えず更新され続けていて、それに立ち会い続け、自分も応答できていることを自分自身で驚くべきこととして見出せるようになったとき、毎日のありふれた経験や行為、些細な変化に注意深くなるこの参与に、改めて自信を持てるようになったように思っています。

 

調査対象について

子ども達や先生達が一緒に過ごす小学校の日々のなかで、これまでほかのなによりも優先して問おうとしてきたのは「雰囲気」でした。「雰囲気」は、学校の日々のなかでも時にはことさら重視され、時には軽んじられて語られて、概念的な理解の次元でもその価値が見えにくい状態にあります。しかしなによりも見えにくいのは、学校の日々を過ごす子どもや先生の言葉になりにくい経験にとってどれほどの意味と価値を持っているのか、ということでした。「雰囲気」を問うということは、往々にして問う機会が見逃され忘れ去られやすいという点で、小学校の日々に生じる経験や行為に注意深くなることとほぼ同義でした。現在は、小学校への参与を通して見え隠れしていた「地域性」(風土)にも注意を向けながら、学校のありふれた日々とそこでの経験を巡って、よりよい表現の道を模索しているところです。

 

大学院生へのメッセージ・学際の場へのおさそい

つい最近まで割と長めに大学院生ぐらし、小学校ぐらし(こちらは継続中)をしていました。私は学部では教育学部で心理学系を中心に学び、大学院以降は成り行きから都市共生デザイン専攻で学び、何か不思議な縁があって今は教育学部門に身を置いています。これらの領域はある部分では近接しつつも、やはりまったく異なる性格をもっているようです。新しい場に身を置くたびに当該領域の人達の発言や行動の意味が分からず、何にどうしてこだわっているのかがいちいち分からない…という具合で、学際的な状況とは、正直に言うと楽しいばかりではなくて、ものすごい困惑・混乱とストレスの中に放り込まれる状況だなあ、というのが本音のところです。けれどもそれぞれの領域で出会う人達の言動にじっと耳を傾け、見続け、時には膝を交えて議論していくうちに、それぞれの領域が大事にしているものが突如見えてくる瞬間があります。そしてその頃には、それまでの自分とは全然違う自分になっていることも気づかされます。そんなわけで私自身は今、心理学徒ともいいにくいし、教育学徒ともいいにくく、まして建築学徒とは到底言えず、従来の学問領域のどこに行っても場違いな気がしてしまう困った身の上です。

 

これは、従来の学問の枠組みを前提として「研究者」になるには不都合かもしれません。けれども人間環境学府は、人間-環境に関わって何か大事なことを「問う人」になるためには最適な場所です。従来の学問領域では到底受け止めてくれないような逸脱にも付き合ってくれます。体系性も方法も準備されていない問いの領域にとって、「人間環境学」という大きくておおらかな受け皿はとてもありがたいと感じます。その受け皿に救(掬)われ、今も育てられている身として、あなたはあなたで本当に大事な問いを生きてほしい、とリルケ(若き詩人への手紙)にならって呼びかけてみたいと思います。答えを急ぐ人間ではなく、本当に大事な問いを生きる人間を支えてくれる「問うための環境」がここには確かにあります。これから私もその環境に育てられつつ、環境に資する者になっていきたいと思っています。

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