福元 圭太教授Keita Fukumoto
専攻 | 教育システム専攻 |
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部門 | (言語文化研究院) |
コース |
修士:
国際教育環境学講座 博士: |
講座 | |
九州大学研究者 データベース |
https://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K001733/index.html |
子供のころからドイツ音楽が好きでした。その影響か、中学生になるとドイツ文学にはまり、ハイネやリルケの詩集、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンの小説を文庫本で読み漁り、案の定「根暗な」青春を過ごしました。大学の卒論以来、日本で言えば「漱石・鷗外クラス」の巨人であるトーマス・マンの後期文学と格闘。ここ15年ほどはそれと並行して、ドイツの自然科学者が思弁的に営む、神秘主義的な傾向を持つ自然哲学を追ってきました。「啓蒙的な合理性では捕捉できないもの」に昔から興味があり、ドイツ文学や思想に伏流するロマン主義的なものを追いかけています。
「文献学」と言ってよいと思います。とにかく原典に当たりますが、昔は「足」で読んだものです。つまり文献を探し回り、コピーしては消化した、ということ。今ではweb上に貴重な文献の全文テクストが載っていることも多いので、足で資料を集める労苦は(残念ながら)大幅に軽減されました。文献は目でも読むのですが、「指」でも読みます。テクストを指で追いながら「なめるように」読む、ということです。
「こんなもの誰が読むんだ!」という文献を見つけたときはワクワクします。その答えは「私が読むんだ」。
文献学はテクストが命なので、訳本があっても、とにかく原典に遡ることを心がけます。流布している翻訳本の誤訳をときおり発見しますが、もちろん自分が間違うこともあるので、騒ぎ立てません。原典主義を標榜すると、私には分からないフランス語やロシア語の文献については翻訳に頼るしかないので、自分の首を絞めることになります。大きなジレンマです。
疑問を解決してくれるような文献と遭遇した時は嬉しいですね。落ち込むのは、自分が発表しようと思っていたことを、タッチの差で先に言われたときです。
ドイツで在野の哲学者と会いました。ある大学に非常勤で勤めていたけれど、大学自体が理系重視になったので、職を失ったとか。いまでは合唱の活動をしながら哲学塾を開いているそうです。いい本を書いている人なんですが。
文系の学生さんは大いに図書館を利用してください。私は朝一番に図書館に入って遅くまで粘り、翌日また朝一番に同じところに座っていたので、「あの人は図書館に住んでいる」と噂されていたようです。勉強ばかりしていたわけではないのですが。
上とかぶりますが、日本ではとにかく図書館通いでした。修士の途中で、今は無き「東ドイツ」、いわゆる「ベルリンの壁」の向こうに10か月留学しました。まだ前世紀の80年代半ばです。反政府ビラが刷られるとまずいので、当時はコピー機が使えませんでした。仕方がないので、文献をひたすら書写していました。まるで「写経」。
まず専門分野である程度の高みに到達することが肝要と思います。その上でなら連携は実り多いと思います。
「ドイツの自然科学者が思弁的に営む、神秘主義的な傾向を持つ自然哲学」に関連する研究課題で科研費を獲得したので、今しばらくその方面で研究を続けます。テーマは「物質に宿る記憶」ですが、ベルクソンではありません。東ドイツ出身の作家の文学作品を翻訳したい、という希望もあります。また、学習独和辞典の編纂執筆にも長年携わっているので、その経験を踏まえたドイツ語教育実践に今後とも邁進したいです。
○『エティカ』(バルーフ・デ・スピノザ)
○『フロイトとユング』『神話と科学』(いずれも上山安敏著,岩波書店)
○『岩波哲学・思想事典』